武田惣角源正義先生は明治2年会津藩剣術師範渋谷東馬より小野派一刀流剣術を教伝されました。
明治5,6年東京車坂道場にて榊原鍵吉に直心影流剣術を教伝されました。
他に会津藩神道精武流剣術、抜刀術も少年期伝承されたものであります。
明治、大正年代にかけ真剣勝負も数度されたと話されました。(山本角義先生の話による)
武田惣角先生は剣術とは音ナシの剣法であると山本に話をされている事、現在剣道のように声を発してはならないと言う事であります。
それは相手に呼吸を読まれたり、さとられてはならないからであるとの事でした。
剣の動きも同じで影を追え打てとも仰られました。榊原道場では一切声を発せず、道場に大豆とかアズキ豆をまいて剣の修行をされたとも話されました、
どのような身体の状態にあろうとも剣が使えるようでなければならないと言う事であります。これが剣の道であろうと思われます。
武田惣角先生は、山本に天井から絹糸を下げさせ、それを抜き打で斬っていたようであります。
また台に2本のローソクを山本に立てさせて、抜き打ち水平切りでローソクの火を切り落したと仰られておりました。
山本、相手と試合をした時は最初の一本は絶対相手に取らすな後の九本などは負けてやれと、相手に花を持たせてやれと話されました、
それは真剣勝負の時、命にかかわる事であると示されているのです。
また、真剣勝負の時、白鞘の刀は絶対に使うなと山本に念を押されています、指(親指)を斬られたら命がない事を話されました。
山本角義先生ご自身も、刀に情けあってどうするかということも仰られれて居りました。
山本角義は最後の内弟子として修行、昭和16年に教授代理(英名録には昭和16年7月吉日と記載有)となり、
昭和17年大東流合気柔術秘伝奥義之事の大免状を賜り、おまえに総ての武術を伝授すると言われ小野派一刀流剣術等、真剣術と合氣の秘法を
伝授されました。
それらに大東流の理合を加え現在の無限神刀流居合術として大成されたものであります。
武田惣角先生の剣術家としての理念がここに継承されているのであります。
武田惣角先生は非常に用心深い人物で山本角義先生が入れたお茶以外は飲まない、他の人が入れたお茶は相手が飲んだら飲むと言う人物である。
寝る時はかならず枕の下に短刀を入れ、枕元に鉄扇を置き、布団の横に大刀を隠すようにして寝た人物と山本先生は仰られて居りました。
この刀(英名録には行平と記載有)は、後に山本角義先生が大東流印と会津藩主松平容保公より武田家に拝領された絹で出来た大羽織紐を一緒に
賜っている。
手裏剣術も教伝するとの事でしたがが、昭和になって手裏剣なんかやってどうするんですかと言ったところ、バカ者と怒鳴られたと仰られて居りました。
長尾先生には、習っておけば良かったと大変残念な様子であったそうです。私方にしても同じく残念であります。
小野派一刀流剣術開祖小野次郎右衛門忠明は青年期、神上典膳(みこがみてんぜん)と名乗り上総国夷隅郡生れ、一刀流祖伊藤一刀斎影久に師事、
影久と共に諸国を修業し一刀流剣術の極意を授かる。師の命により兄弟子小野善鬼と真剣勝負をし皆伝を授かる。徳川家康に仕え500石を賜る。
剣は柳生宗矩より上とされる3代将軍家光は立合を許さなかったそうである。
同じ剣の技量であれば刀は1寸でも2寸でも長い方が有利であるとしていた人物。差料である刀は波平行安2尺8寸。
江戸時代には居合と剣術の心得が文書として残っている。
居合こそ朝夕抜いて心みよ数抜きせねば太刀もこなれず。
斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ踏み込みてみよそこが極楽。
注)同じ小野派一刀流剣術でも笹森先生の伝は津軽のものであり、会津藩流大東流の剣術とは様式、稽古方法が異なるものです。
(会津藩伝継小野派一刀流) 伊東一刀斉景久―小野次郎衛門忠明
―会津藩祖保科正之公より会津へ伝承(注)―一刀流小野派十三代大竹学兵衛
―幕末会津藩剣術師範渋谷東馬貞保(師範代武田善十郎)―明治二年に武田惣角正義
―山本一刀斉角義―長尾全祐一刀斉角全―平岡一刀斉祥淑
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(稽古録に記載の技法名称(大東流、一刀流)には稽古用仮称が含まれています。御注意ください)
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