山本角義派大東流合気柔術 | 長尾全祐宗家より

山本角義派大東流合気柔術 | 長尾全祐宗家より

山本角義派大東流合気柔術 | 長尾全祐宗家より

 

長尾先生 静岡講習

 

武田惣角源正義ノ内弟子山本一刀斉角義派大東流合気柔術無限神刀流居合術小野派一刀流剣術

 

神刀柔進会   宗家 教授代理長尾一刀斉全祐

 

千葉神刀柔進会    教授代理石川一刀斉智広

 

静岡神刀柔進会    教授代理平岡一刀斉祥淑

 

富士神刀柔進会    教授代理石山一刀斉浩二

 

富士神刀柔進会    教授代理宇佐美一刀斉範貴

 

愛知豊橋神刀柔進会  教授代理磯部一刀斉力夫

 

山本角義先生

 

山本角義先生は大正三年三月三日の生れであります。秋田県に住んでおられた。

 

七人目に生まれた子供だったのでおまえが最後の子だと言われ留吉と命名されたと長尾は話を聞きました。

 

昭和十二年頃に札幌か函館かは今は記憶にないが山本角義先生が二十四歳か二十五歳の時に

 

板前をされて居た店に武田惣角先生が食事に来られた。

 

其の時に人相の悪い爺さんが入って来たなとそのような印象があった。

 

何度か来る内にお爺さん何をされているのですかとたずねた。するとわしは武術家だと言われた。

 

いろいろ話をするうちにお前も来てみろと言われた。

 

それで武田惣角先生に武術を習う様になった。

 

当時は月謝が高かったので、お金を溜めて三カ月位習った。何回も同じ事をされて技を身に付けたと

 

長尾は山本先生に話を聞かされた。

 

其の後昭和十六年になり内弟子となったものである。

 

昭和十七年教授代理、二字 角と義の名を賜る。

 

武田惣角先生指料大刀一振りと会津藩主松平容保公より武田家に拝領の紫絹で出来た

 

大羽織紐も賜る。

 

会津藩剣術師範渋谷東馬(会津藩医生江寛隆「なまえかんりゅう」の第三子で渋谷家の養子となる。天保三年十月十三日生れ、

 

明治三十七年五月六日七十三歳で死去。「墓は定林寺に有り、会津坂下町」)

 

明治二年武田惣角先生は小野派一刀流免許を許される。

 

昭和十六年山本一刀斉角義先生が教授を許される。他に棒術(槍)

 

其の他では長尾全祐。合気と言われる力抜きの術を指導中。

 

一本指とか二本指を掴ませて一瞬で相手を投げる技等とか、7名〜8名を座らせて一瞬で倒す技を指導中。

 

 

 

武田惣角先生は昭和十六年病にて山本角義先生が面倒を見るようになる。

 

背負って風呂屋に行ったり食事をさせたりとよく面倒を見た。

 

背中で良く「山本すまんな、すまんな」と何度も言われていた。

 

この時の山本角義先生の前の奥様がよく大変な苦労をされて武田惣角先生の面倒を見られた。(山本先生の長女は昭和十六年の生れである)

 

武田惣角先生は東京へ行かれる時山本角義先生も一緒に供をされた。

 

昭和十八年の戦時中のことである、然し残念ながら病が重くなり青森市伊東方旅館で四月二十四日死去された。

 

八十五歳であります。山本角義先生が死に水をとられた。

 

武田惣角先生

 

山本角義先生は苫小牧市内で寿司店を経営されていました。

 

然し昭和五十七年一月山本角義先生が死去されましたので山本ツヤ子さんが代表になられ経営をされて居ました。

 

それで須藤丈が三年間店の手伝いをされた。

 

須藤丈は中学高校と五年間山本角義先生に技の指導を受けスペインへ行くと言われて外国へ行かれたものである。

 

長尾全祐先生

 

長尾全祐 昭和十三年十月十一日北海道伊達市生れ

 

昭和三十三年六月陸上自衛隊に入隊。七年間在籍、除隊後、昭和四十五年八月

 

松緑神道大和山苫小牧支部武道場で山本角義先生の門に入門。

 

松緑神道大和山様は青森県東津軽郡平内町大字外童子山中になります。

 

長尾は昭和四十八年五月に参山致しました。山本角義先生は神行の深い方で有ります。教主様によって武道場は作られました。

 

武田惣角正義先生の祖は第五十六代清和(せいわ)天皇であります。武田家は源氏であり、

 

子供の頃に祖父武田惣右衛門に武術を習ったと聞いている。

 

長尾家の祖は第五十代桓武(かんむ)天皇であります。平安京遷都、京に都を開いた天皇であります。

 

長尾は平氏である。今から九百七十年位前に相模国鎌倉郡長尾郷に土着。

 

地名を冠し長尾新九郎景村となった人物が長尾氏の祖である。関東武士であります。平将門は同族であります。

 

 

 

 

 

 

 

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